東京天王洲の歴史と変貌。倉庫街からアート街への展開!天王洲の展開に地域のいまをみる

東京都品川区に位置する天王洲。
東京モノレール・りんかい線の「天王洲アイル駅」が最寄りの開発都市です。
天王洲は倉庫街として、江戸時代より栄えてきた街。
そんな、天王洲が倉庫街からアート街へと変貌を遂げたことはご存知でしょうか。
その立役者は、天王洲アイルに本社を置く「寺田倉庫」です。
寺田倉庫は、従来の倉庫業を見直し、空間を提供するだけでなく、キャッシュフローを重視した経営改革の一環として天王洲の変貌を実現させました。
では、なぜ寺田倉庫は倉庫街であった天王洲を、アート街へと変貌させることができたのでしょうか。
そこで、今回は天王洲変貌の展開を踏まえて、これからの地域の発展に必要なことについてお伝えいたします。天王洲の歴史や発展の過程を見て、地域のいま、そして未来に必要なことは何かを押さえてみてください。

天王洲とは?天王洲の発展の歴史を知ろう

天王洲

天王洲とはどういった街なのでしょうか。
まずは天王洲の基本情報から、街の発展の歴史についてご紹介していきます。

天王洲とは

天王洲は、東京都品川区の北東部に位置する都市。
京浜運河や天王洲運河に面した、総面積22ヘクタール全域が埋立地という特徴があります。
では、そんな天王洲の詳しい情報や成り立ちの歴史をみていきましょう。

天王洲エリアを俯瞰!基本情報まとめ

運河に面した土地であることから、東京都内のなかでも水辺景観に優れており、ドラマや映画などの撮影地として、さらには運河を利用した観光振興にも取り組んでいます。
2010年代以降は倉庫としての街だけではなく、芸術文化の発信地をコンセプトに発展。音楽や絵画、現代建築など、芸術に関するコンテンツを集積する街へと変貌したのです。
それだけでなく、オフィスや商業施設、飲食店なども設け、多くの来街者が流入するようになりました。
このように物流倉庫の街から芸術文化の再開発街区となった天王洲。
天王洲エリアは、今では「アートになる街、ハートのある街」をテーマに、多くの人がさまざまな目的で訪れる土地へと成長しています。

天王洲成り立ちの歴史

埋立地となる前の天王洲は、海中の土砂が堆積してできた州でした。
そして江戸より前、まだ天王洲が海であった時代に神仏習合の神である牛頭天王が漁師に引き上げられたとされる地である謂れから、海域が「天王洲」と呼ばれるようになりました。
また駅名ともなっている「天王洲アイル」という名称において、「アイル」は「島」を表す英単語。
東京湾のウォーターフロントエリアとして位置していることからこの名前がつけられました。
もともと天王洲は、江戸時代に築かれた第4台場をベースに開発された土地。
江戸時代後期より、海運の拠点として多くの倉庫が並ぶ物流倉庫の中心地として機能していました。
運河に面していることから海運の拠点となっものの、高度経済成長後には輸送手段が海から空へと転換。
これにより天王洲は閑散としたエリアになってしまったのです。
その後1992年に東京モノレールの駅として「天王洲アイル」が竣工。
さらに都市開発が進み、駅ビルやオフィスなどが立ち並んだものの、バブル崩壊と重なったこともあり、閑散とした状態が続いていました。
「かっこいい街」へと変貌したかのように思えた天王洲は、この頃はまだ都市として十分に機能していなかったのです。
そして、2010年以降寺田倉庫を筆頭に、天王洲の大幅な変貌改革に乗り出しました。
商業施設や飲食店の導入にとどまらず、芸術文化の発信地という大きなテーマをもとに、多くの人で賑わう現在の「天王洲」が完成したのです。

天王洲はどのように発展してきた?

時代を超えて街の顔が変貌してきた天王洲。
倉庫街からアート街へと変貌するまでには、どのような歴史を通ってきたのでしょうか。
ここでは初期の天王洲である第4台場から、現在の形になるまでの発展の過程をご紹介いたします。

第4台場

天王洲という地名がつく前、この土地は第4台場と呼ばれる土地でした。
この地域は、政治の中心地が今の東京、江戸に転換したことで、外国からの影響も受けやすい状況にありました。
その代表的な出来事に、ペリーの黒船来航が挙げらます。
江戸幕府はペリー来航をきっかけに再来航を恐れ、江戸の海防拠点である東京湾品川沖に、砲台を設置するための台場を建築したのです。
計11基の台場を建築する予定でしたが、実際に着工したのは7基。
そのうち、今の天王洲にあたる第4台場と今のレインボーブリッジ付近にあたる第7台場は、資金不足の影響もあり未完成のままに終わりました。
今でも残っているのは現在の台場公園にあたる第3台場、そしてレインボーブリッジ付近に独立している第6台場のみです。
そして時は大正時代へと移り、未完成のままにされていた第4台場は造船所へと変貌。この時は「緒明台場」と呼ばれていました。

倉庫街・物流センター

造船所になってから14年、第4台場の埋め立てが始まりました。
そして時代は移り変わり、昭和となった14年後の1939年に完成。
埋立地となったことで品川と陸続きになった第4台場は、運河に面した土地を生かし、工場や倉庫の用地として機能し始めたのです。
この頃の貿易は海上運輸がメインであったこともあり、貿易港として栄えました。しかし、高度経済成長より貿易手段が空輸へと転換。
これにより倉庫街としての機能や役割に大きく変化が生じることになりました。
そして同じ時代、高度経済成長のおよそ10年前に設立したのが、天王洲発展の立役者となった寺田倉庫です。
その6年後、1956年に寺田倉庫は拠点を今の天王洲へと移しました。

オフィス街

オフィス街に転じる動きが出始めたのは、昭和も終わりに近づく1985年のこと。倉庫街としての役割が以前よりも低迷したことから、天王洲をはじめとした東京湾一体の港湾機能を見直す構想としてオフィス街の開発が考案されました。
それに伴い地域地権者22社の合意により「天王洲総合開発協議会」が発足。
そしてこの時に中心となって活躍したのも寺田倉庫です。
翌年1986年には東品川2丁目(現:天王洲アイル)の開発マスタープランが策定されました。
構想開始から5年の1991年7月、に最初のオフィスビルとなる天王洲ファーストタワーが竣工。時を同じくして天王洲エリアサービスにおける地域冷暖房プラントが竣工し、供給を開始したのです。
そこから着々と開発は進み、1992年にはシーフォート・スクウェアのオープン、そして東京モノレールの「天王洲アイル駅」が竣工し、営業を開始しました。
さらにビルの建設は急速に進み、1993年3月にスフィアタワー天王洲、12月に天王洲セントラルタワーが竣工。
1994年に天王洲オーシャンスクエア、1995年に天王洲パークサイド、そして1996年には野村不動産天王洲ビルが竣工しました。
一方で、1992年に東京モノレールが開通したものの、翌年1993年にバブル崩壊が起こったこともあり、天王洲は閑散とした街並みに。
2000年代突入までで急速にオフィスビルが増えたものの、立派なビルとは裏腹に、街には静けさが広がっていたそうです。
また平日はビジネスマンたちがいるものの、土日に天王洲を訪れる人はほとんどいなかった状態が続きました。
土日も多くの人で賑わっている現状からは、想像できない光景です。
そして、ことの転機は2001〜2002年。
2001年に東京高速臨海鉄道りんかい線の天王洲アイル駅が営業開始しました。
その翌年2002年に、りんかい線が埼京線との直通運転を開始したことで、渋谷・新宿・池袋に直通するようになったのです。

これにより、天王洲の交通の利便性と知名度が一段とアップしました。
しかしとはいえ、天王洲アイル駅に訪れるのは、オフィスに出社するビジネスマンのみ。この段階ではオフィス以外で、天王洲に訪れる理由はまだありませんでした。

オフィス街×アート街

倉庫街からオフィス街に転換させたものの、閑散とした状態が続き、オフィス以外の役割を果たせないでいた天王洲。
そこで最初に動きをみせたのが寺田倉庫です。
運河に面した土地であることからその水辺景観を生かし、2006年に東京都の「運河ルネサンス構想」の第1号として、水上ラウンジである「waterline」がオープンしました。
そして20世紀に入り開発の動きは、さらに大きく進展。21世紀の人間の環境を予測した街づくりとして「人間の知性と創造性に働きかける環境づくり」をコンセプトに開発を始めたのです。
ちょうどこの頃からはIT技術が発達したことで、人間の知性・創造性・コミュニケーションのような人間本来の能力を感化させる動きが必要とされた時代。
天王洲はこの流れに着目し、オフィスを中心とした都市開発を続けながらも、感性や知性を刺激する街づくりを目指しました。
その答えが芸術文化の発信地というテーマです。
アートギャラリーや現代建築、イベントスペースを取り込むことで感性や知性を刺激し、商業施設を作ることで人とひととがコミュニケーションを取れるような街並みへと変貌。
街の機能性のみならず、仕事・余暇・生活に対応できる快適性を街づくりに取り込みました。
幸いにも東京湾ウォーターフロントの恵まれたロケーションにあることから、アーバンリゾートとして、おしゃれな空間が出来上がったのです。
もともと立地条件は良く、超都心部に近接し、羽田空港へのアクセスも便利なことから、今では多くの来街者で賑わうアート街へと変貌を遂げました。

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なぜ街にも進化が必要なのか

天王洲

これまで天王洲の発展と変貌について、歴史を遡ってきました。
その理由は単に天王洲が変貌を成し遂げた一例だからではありません。
天王洲のような変貌は、どの地域にも成し得ることであり、それを実現し成功した例が天王洲ということです。
もちろん天王洲以外にも、街が変貌を遂げた例はいくつもあります。
そしてその発展と変貌の背景には、さまざまな構想と立役者が存在しているのです。ではなぜ街には進化が必要なのでしょうか。
ここでは3つの観点から、街の進化について言及していきます。

街の進化は産業やビジネスの進化にあり

江戸の第4台場から、現在の天王洲アイルになるまで、天王洲は街の様子だけでなく、機能や役割も大きく変化してきました。
そして天王洲の変化からわかることは、街の進化は産業やビジネスの進化ありきだということです。
天王洲発展の歴史を振り返ると、その背景には産業やビジネスの進化が立ちはだかっています。
江戸時代には砲台となり得るはずだった第4台場。
惜しくも資金不足で未完に終わりましたが、その後は運河に近い立地を生かして造船所に。そしてその後は埋立地として吸収され、工場や倉庫用地として発展しました。
今の工業地帯や倉庫地帯が海沿いにあるのと同じく、海上運輸の要の地として生き返ったのです。
しかしながら高度経済成長を機に、輸送手段が空輸へと転換。
これにより天王洲の役割が大きく変わってしまいました。
それでも天王洲という地域を廃れさせまいと動きを見せたのが寺田倉庫をはじめとした「天王洲総合開発協議会」です。
彼らは開発コンセプトである「人間の知性と創造性に働きかける環境づくり」をもとに、都市開発を進めてきました
1990年代に入り天王洲はオフィスビルが立ち並び始め、これまでの無機質な倉庫街が一変し始めます。
では、なぜ21世紀の人間の環境を予測した街づくりを目指したのでしょうか。
それは未来を見据えた先見の明があったからだといえるでしょう。
IT技術の発達により単純な処理労働から解放される21世紀を予測し、その単純な処理労働を体現する倉庫街から、人々のアイデアが飛び交うオフィスを構想したのだと考えられます。
しかしながら1990年代はビルこそ建っているものの、実態が追いついていない状態に。立派なビルには見合わない、閑散とした状況が続いていたそうです。
この頃はまだ枠組みだけの天王洲であり、本来の開発コンセプトを体現する創造性に働きかける環境づくりには追いついていなかったのかもしれません。
そして予想通りIT技術が発展し始めた2000年代。
りんかい線「天王洲アイル駅」が営業開始したことにより、渋谷・新宿・池袋と直通したことから交通の利便性や知名度も向上しました。
さらに2006年の「運河ルネサンス構想」による水上ラウンジのオープンを筆頭に、2010年代から天王洲の倉庫街はアート街へと変貌していったのです。
とはいえ、倉庫業を完全になくしたわけではなく、高級ワインの保管や美術品・貴重品を預かるようなプレミアム倉庫へと転換。
さらにはまちづくりや文化づくりの想いを掲げ、不動産的な役割も担い始めたのです。
従来の倉庫業にとらわれず、事業までをもスタイリッシュに変貌させました。
この天王洲の変貌はたまたま実現したものではなく、時代の流れによる産業やビジネスの変化が大きく関係しています。さらにそれに伴い、先見の明を持った立役者たちが行動を起こしたからこそ実現したものなのです。

進化なくして街の発展なし

これまでご紹介してきた発展の歴史がなければ、今は天王洲という場所は機能していなかったことも十分に考えられます。
つまり歴史のどの瞬間を切り取っても、天王洲という場所がなくなる可能性は大いにあったということです。なぜなら造船所、倉庫街として機能してきた街は、産業やビジネスありきの街だったからです。
運輸手段が海から空へと転換したことで、港湾機能を見直す構想が出ていなければ、天王洲は倉庫街として廃れていく一方だったでしょう。
倉庫街からオフィス街へと転換する進化があったからこそ、人で賑わう今のアート街としての天王洲があるのです。
つまり街は進化を人の手で起こさない限り、役割や機能を失い、廃れていく一方という性質を持っているといえます。
日本は東京に人が集中する傾向にあり、地方の役割や機能が衰えつつあります。
そもそもなぜ人は東京に集中するのでしょうか。
それは東京が常に進化し続けている街だからです。
東京は機能性や快適性の進化だけでなく、知性や創造性をも進化させる街といえます。
地方にはない新鮮さや刺激、そしてコミュニケーションを求めて、人々は東京に流れてくるのではないでしょうか。
地域の発展に関して天王洲はほんの一角であり、天王洲を含めた東京は、先見の明を持って常に進化をとどめていません。
だからこそ人が集まり、街が明確な機能や役割を持って、活気に満ちているのです。

街は新しい価値を生み出し続けるベース

新しい価値を生み出し続けるためには、街が必要です。
なぜなら街は価値を生み出す人を収納する場所であるからです。
新しい価値はすべて、どこかの「場所」で生まれています。

天王洲でいえば「機能性・知性・創造性・コミュニケーション」の価値を生み出す場所となりました。
さらに芸術文化の発信地として、アートという新しい価値も創出。
そのベースには、天王洲という街があります。
天王洲は産業やビジネスに大きく影響された街であるため、一般的にな地域には当てはまりにくい部分もあるでしょう。
そこでより具体的な例に宮崎県の日南市が挙げられます。
その舞台は日南市の中心地にある「油津商店街」です。
今や多くの人で賑わっており、数々のベンチャー企業も進出しているほど。
しかしかつては寂しいシャッター街だったのです。
日南市に限らず、昔は賑わっていた商店街が時代の流れに逆らえずにシャッター街となってしまう話は、近年よく耳にするようになりました。
そんな日南市が3年ほどで活気を取り戻したのは、まちづくりのプロである地域再生請負人、木藤亮太さんと田鹿倫基さんのおかげです。
彼らは日南市の中心にある油津商店街を再生するために、市民を巻きこみ新しい価値を街に創出するプロジェクトを立ち上げました。
そして商店街をどこか他人事としていた市民の熱量を生み出し「自走できる商店街づくり」を実現したのです。
なぜそこまでできたのでしょうか。それは木藤さんと田鹿さんが日南市へ移住し、市民と同じ目線で活動を重ねてきたからです。
そして商店街への新しい価値を生み出した最大の武器は、市民とのコミュニケーションといえます。
市民の意見を取り入れたユニークなイベントの開催、そこから商店街の一体感と話題性が急上昇し、あっという間に15店舗の新規オープンが実現しました。
これにより油津商店街を中心として日南市に活気が戻り、雇用の増加や集客などの経済効果にもつながったのです。
そして何よりも市民が積極的にまちづくりに関わるようになったことで、場所以上に「人」という資源が新たな価値として再生しました。
しかしこれらの効果や価値を生み出せたのも、日南という街、そして油津商店街というベースがあったからこそです。

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天王洲の発展に地域のいまをみる

天王洲

天王洲の発展は、天王洲だから成し遂げられたわけではありません。
つまり天王洲の発展は一例であり、産業やビジネスの進化に合わせて、新しい価値を生み出すベースである街を進化させることが重要なのです。
ここでは天王洲の発展から、地域のいまを考えてみましょう。

天王洲と油津商店街の発展に共通していること

これまでご紹介してきた例は天王洲と、宮崎県日南市の油津商店街です。
両者に共通する街の発展には「既存の価値にとらわれずに、新しい価値を生み出す」という考え方があります。天王洲は産業やビジネスの進化に伴い、街の役割が変化。
そこで、寺田倉庫は倉庫街を盛り上げるために再生するという考え方ではなく、全く新しい知性と創造性をコンセプトにしたアート街を作り上げました。
そして油津商店街も、過去の盛り上がっていた時代の商店街を復元するという考え方ではなく、時代に合わせた「商店街ではない、商店街」を作り上げたことが成功の要因といえます。
油津商店街の例をさらに深掘りしていくと、時代に合わせた新しい商店街の定義が見えてきます。
従来、商店街とは八百屋・魚屋・金物屋など、本来の商店が集まっていた場所です。
しかし時代の流れとともに地域の人口が減り、地元客の消費行動が変化。
このことがシャッター街へと変貌してしまった最大の原因なのです。
だからこそ、過去を復元しても意味がないことを立役者たちはわかっていました。
そこで油津商店街が取り入れたのは、カフェ・ゲストハウス・居酒屋・レンタルスペース・IT企業・子供の遊び場など、商店に分類されない店舗です。
地元客だけでは店舗の維持ができないことを理解し、外部のマーケットにリーチできる店舗を作り上げました。
商店街には似つかわしくないIT企業やゲストハウスですが、これらがあることにより商店街内での経済サイクルが完成。
例えばIT企業の社員が商店街でランチしたり、ゲストハウスに泊まりに来た観光客が商店街の居酒屋で楽しむことで、結果的に商店街で消費行動を起こしていることになるのです。
天王洲も同じく、アート街にすることで来街者を増やし、天王洲としての価値を来街者に楽しんでもらえるように街を作り上げました。
このように両者は既存の価値に縛られることなく、外に目を向けた施策により街を発展させたのです。

地域の発展にインフラの成長が必要か?

地域の発展にはまずインフラの成長が必要だと思う方も多いでしょう。
実際に天王洲でもオフィスビルと合わせて、地域冷暖房プラントが竣工しました。
天王洲はもともと何もない倉庫街から、オフィスビルを建て始めたのが変貌の始まりです。
そのためこれをベースに考えてしまうと、まずは新しく建物を立てたりインフラを成長させねばならないのではないかと思ってしまうでしょう。
もちろんインフラの成長があるに越したことはないですが、必ずしも必須ではありません。
このことがわかる例に同じくシャッター街から再生した、名古屋の円頓寺商店街が挙げられます。
全盛期から半分以上の店舗数に減ってしまい、閑散としていた円頓寺商店街。
今では、活気を取り戻し、商店街の賃料も倍に成長しています。
また、2018年11月に開催された「円頓寺のパリ祭り」では、朝から晩まで歩くスペースが確保できないほど、人で溢れかえっていたそうです。
円頓寺商店街は、インフラの成長には触れずに発展した商店街。
なぜなら、ほとんどの店舗が空き家・空き店舗のリノベーションによるものであるからです。
そしてこの商店街の再生、そして空き家・空き店舗のリノベーションの立役者となったのが建築家の市原正人さん。
では、なぜ新しいインフラの成長ではなく、リノベーションにこだわったのでしょうか。
その理由は「歴史の積み重ね、そしてエモーショナルなつながりを生み出す」という価値を創出したい想いがあったからです。
天王洲も油津商店街も、新築することで新しい価値を生み出していく発展方法でした。
対して元あるものをリノベーションする方法は、これらと真逆の新しい価値の生み出し方です。
街、地域の発展には新しく生み出すことが前提という考え方を打破する成功例ともいえます。
つまり必ずしも何かを創出させなければ街・地域が発展しないわけではなく、インフラの成長が必須ではないということがわかります。

地域の発展に本当に大切なこと

これまで天王洲・油津商店街・円頓寺商店街を例に、地域の発展についてお伝えしてきました。
地域の発展は決して不可能ではなく、どんな街も進化することが可能です。
そしてその発展において本当に大切なことは「街の可能性を信じること」そして「想いを大切にし、それを元に街を創造すること」といえます。

街の可能性を信じるということ

名古屋の円頓寺商店街における成功の大きな要因の1つに、立役者である市原さん、そして地域の人たちが街の可能性を信じたからということが挙げられます。
街の歴史をつないでいきたいという市原さんの想いにより構想されのは、空き家・空き店舗のリノベーションです。
しかし、大家さんたちに自分の物件を空き家と公言する者はおらず、直接会いに行っても「空いているわけではなく、倉庫として使っている」といったように、そもそも空き家・空き店舗を貸すことに抵抗を示していました。
その背景には「貸す方が手間」「貸してもいくらの収入にもならない」という意識があったのです。しかし、市原さんは、これらをリノベーションすることによる商店街の明る可能性を信じて諦めませんでした。
実際に街を歩き、良い空き家・空き店舗を見つけて「どんな客がきて、どれくらい売上が見込めるか」という点まで構想。
そして、リノベーション工事にかかる費用や家賃収入の見込みといった、具体的なビジョンとプランまで大家に提示したのです。
これにより大家さんも街の可能性を信じて、リノベーションを了承。結果、人手賑わう人気の商店街へと発展しました。
立役者がどんなに良いビジョンやプランを持っていても、そこに居住している人たちが街の可能性を信じない限りは実行に移せません。
となると円頓寺商店街の進化は、大家の協力なくして実現は不可能でした。
つまり街の進化は立役者をはじめとして、地域の発展に関わる全て人々が街の可能性を信じるということが大前提になければならないのです。

想いを大切にし、それを元に街を創造するということ

当初より天王洲とまちづくりを進めている寺田倉庫。
時代の流れにより物流の拠点が品川や大井に移り変わったことで、新しいビジネスを展開しました。
そして今ではワインや美術品・貴重品などの「保存・保管」業、まちづくりや文化づくりを担っています。
メインを倉庫業とせず、不動産に近いビジネスを展開。
そして「知性と創造性に働きかける環境づくり」という想いを元に、従来の倉庫街、そして運河を生かしたまちづくりを実現しています。
文化や芸術を保管するための「建築倉庫ミュージアム」や、人々が多目的で活用できるイベントスペースやレンタルスペースの設置など。
まさに人間本来の能力を発揮するためのアート街として、想いを街に反映させ、成功を収めているのです。
寺田倉庫に限らず、商店街発展の立役者となった人々は、街に対する想いを元に街を創造しています。
天王洲は立役者である寺田倉庫の想いを元に、0ベースから街を創造させた例。
しかし商店街は立役者の想いだけでなく、彼らとのコミュニケーションから生まれた地域の人々の想いも大切なベースです。
つまり「こんな街にしたい」「こういう街になったら良いな」という想いを大切に、一丸となって街を創造していくことが本来の意味での地域の発展といえるのではないでしょうか。

まとめ

今回は天王洲、そして各地方の商店街を例に、街・地域の発展についてお伝えいたしました。
街は時代とともに変化していくもの、そして時代に合わせて進化しないと廃れていくのもの。
さらにこの世に新しい価値を生み出すベースになるのも、街なのです。

時代を超えて大きく発展を成し遂げた天王洲の例は、決して奇跡ではありません。
立役者がおらず、かつ街に対する想いと可能性を信じることがなければ、今の天王洲はなかったでしょう。
全ての人が同じ想いを持って動くのは難しく、その想いを引き出すための立役者がいたからこそ、天王洲も商店街も発展が実現したのです。
しかしこれは立役者が現れるのを待たなければいけないということではなく、誰もが立役者になる可能性があるということ。
街は自動的には発展してくれません。
何もしないままでは、街としての役割や機能が失われてしまい、本当の意味でのシャッター街になってしまう可能性も十分に考えられます。
地域のいまを考えたとき、街を変貌させることができるのは、この記事を読んでくださった皆様なのです。

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