人的資本経営の重要性が認識されたところで、次に直面するのは「具体的に何をすればよいのか」という課題です。単に理念を掲げるだけでなく、実効性のある施策を講じて初めて人的資本経営は現場に根付きます。経済産業省の「人財版伊藤レポート」では、人的資本経営を推進する上で企業が留意すべき3つの視点(3P)と5つの共通要素(5F)が提示されました。そのうち5つの共通要素は、人的資本経営を具体化するための主要な施策領域を示すものです。本稿では、この5つの要素に沿って、人的資本経営の具体的な実践方法を解説します。
人的資本経営の5つの実践ポイント
人財版伊藤レポートで示された人的資本経営の共通要素は以下の5つです。それぞれのポイントについて、具体的な取り組み方を見てみましょう。
- 動的な人財ポートフォリオの構築: 経営戦略の変化や新規事業の展開に柔軟に対応できるよう、社内外から多様な人財を集め、適材適所に配置する人財ポートフォリオを構築します。将来のビジネスモデル実現に必要なスキルや人員像を見据え、定期的に現状とのギャップを把握しながら人財計画を更新します。例えば、デジタル領域を強化したい企業であれば、既存社員のデジタルトレーニングと並行して外部からデジタル人財を中途採用し、組織内に多様なスキルセットを揃えるといった施策が考えられます。多様な個人が活躍する柔軟な人財ポートフォリオを構築できているかという視点が、まず重要なポイントになります。
- 知と経験のダイバーシティ&インクルージョン(D&I)の推進: 組織内に多様な知識・経験・背景を持つ人財が存在し、その力を引き出せているかを重視します。ただ人財の多様性(ダイバーシティ)を確保するだけでなく、一人ひとりが活発に意見を交わし互いから学び合える包摂的な環境(インクルージョン)を整えることが肝要です。個々人の多様性が対話やイノベーション、事業成果につながる環境にあるかを点検し、必要に応じて組織風土の改革やチーム編成の見直しを行います。例えば、年齢・性別・国籍の異なるメンバーでプロジェクトチームを構成し、多角的な発想を促す、社員の声を経営に反映する仕組みを作る、といった施策が考えられます。D&Iの推進により、新しい発想や問題解決法が生まれ、ひいては競争優位の源泉となります。
- リスキル(学び直し)と継続的なスキル開発の促進: ビジネス環境の変化に伴い、社員に求められるスキルも刻一刻と変化します。そこで、現在の人財のスキルと将来必要とされるスキルとのギャップを定量的に把握し、そのギャップを埋めるためのリスキリング(学び直し)施策を推進します。具体的には、DX(デジタルトランスフォーメーション)に対応するための社内研修、新規事業に挑戦するためのビジネススクール受講支援、若手社員向けのローテーション研修による多面的な経験付与などが考えられます。重要なのは、一度きりの研修で終わりではなく、社員が継続的に学び成長できる仕組みを作ることです。リスキルを企業文化として定着させ、人財の知識・スキルをアップデートし続ける企業は、変化の激しい市場環境でも競争力を維持できます。
- 従業員エンゲージメントの向上: 従業員が主体的・意欲的に働けているかという視点も人的資本経営では非常に重視されます。エンゲージメントとは、従業員の会社に対する愛着心や熱意、コミットメント度合いを指します。エンゲージメントが高い従業員は生産性が高く、離職率も低いことが様々な調査で示されています。実際、日本の企業における研究でも、従業員エンゲージメントの向上が営業利益率や労働生産性の向上につながるとの結果が報告されています。ではエンゲージメントを高めるにはどうするか。その鍵は、経営と従業員のコミュニケーションと公正な処遇にあります。まず、会社のビジョンや戦略を従業員一人ひとりにまで浸透させ、「自分たちの仕事が会社の目的達成に貢献している」と実感できるようにします。また、従業員の声を経営層が積極的に聴き、職場環境の改善や働きがい向上につなげます。評価・報酬制度も見直し、成果や挑戦を正当に評価することで、従業員のモチベーションを維持・向上させます。例えば定期的な従業員意識調査を実施し、その結果を経営計画に反映する、人事評価に「価値観の体現度」や「チームへの貢献度」などエンゲージメントに通じる要素を組み込む、といった取り組みが考えられます。こうした施策の積み重ねにより、従業員が会社と一体感を持って働けるようになれば、業績にも良い影響が現れるでしょう。
- 時間や場所にとらわれない柔軟な働き方の定着: 新型コロナウイルス感染症の流行を契機に、多くの企業でテレワークや時差出勤などが導入されました。人的資本経営においても、時間や場所に縛られず働ける柔軟な就業環境が重要な要素の一つとして追加されています。柔軟な働き方の推進とは、単に在宅勤務制度を設けるだけでなく、リモート下でも生産性を保てるITインフラの整備、フレックスタイムや副業制度の導入、オフィスへの出社が必要な業務とそうでない業務の仕分けなど、多方面にわたります。社員がライフステージに応じた働き方を選択できれば、優秀な人財の離職防止にもつながりますし、全国・世界各地から人財を採用することも容易になります。例えば、ある企業では週休3日制や在宅勤務手当を導入し、地方在住者や子育て中の人財でも働きやすい環境を整えました。また別の企業では、オフィスに出社しなくてもチームの連携が図れるようにオンライン上の朝会や雑談スペースを設け、リモート下でも社員同士の結束が弱まらない工夫をしています。このように、働き方の柔軟性を高めることは社員のワークライフバランスとエンゲージメントを向上させ、結果的に生産性向上と人財確保に寄与します。
以上の5つが、人的資本経営を実践する上で特に重要とされる領域です。人財版伊藤レポート2.0では、これら各要素ごとに実際の企業の具体的な取り組み事例も示されており、より深く理解できる内容となっています。例えば、動的な人財ポートフォリオでは大手メーカーが社内人財データベースを構築してグループ内の人財シェアリングを実践している事例、D&IではIT企業が社内公用語を英語化してグローバル人財の登用を進めた事例、リスキルでは金融機関が全社員にデジタルリテラシー研修を義務付けた事例等が紹介されています。各企業の具体例は異なりますが、共通して言えるのは、自社の経営戦略上重要な人財課題を見極め、上記の要素を踏まえてカスタマイズした施策を打っているという点です。
おわりに
人的資本経営を具体的に実践する方法について、5つの重要ポイントを中心に見てきました。これらは決して一朝一夕に成し遂げられるものではありませんが、逆に言えば継続的な取り組みによって確実に成果が蓄積していく領域でもあります。企業ごとに重点を置く施策は異なるでしょう。たとえば、ある企業はまず人財の多様性確保に注力し、別の企業はエンゲージメント調査による組織改革から始めるかもしれません。大切なのは、自社の経営課題を踏まえて人的資本への投資計画を描き、KPI(重要業績評価指標)を設定してPDCAサイクルを回すことです。人的資本経営は、経営戦略と連動した人財施策を試行錯誤しながら磨き上げていくプロセスとも言えます。地道な努力の先に、従業員が最大限に活躍し企業価値が高まる理想的な姿が実現するでしょう。人的資本経営の実践は長い旅路かもしれませんが、一歩一歩着実に進めていくことが、次代を勝ち抜く企業への成長につながるのです。