「人財に投資をして本当に企業価値が上がるのか?」――経営者なら一度は考える問いでしょう。人的資本経営では、人財への支出を将来への投資と捉えますが、その投資がどのようなメカニズムで企業価値向上に寄与するのかを理解することは極めて重要です。ここでは、人財投資(従業員に対する教育訓練や待遇改善など)が企業の業績や価値評価にもたらす影響について、主なポイントを解説します。
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生産性の向上とイノベーション創出
人財への投資が最も直接的に効果を発揮する分野の一つが生産性の向上です。従業員のスキルアップや知識向上に会社が資金や時間を投じれば、個々の社員が生み出すアウトプットの質と量が高まります。例えば、最新のIT技術に関する研修を全社員に受講させれば業務効率が向上し、新しいデジタルツールを駆使してこれまで出来なかったサービス提供が可能になるかもしれません。また、マネジメント層に対するリーダーシップ研修への投資は、部下のパフォーマンスを引き出し組織全体の生産性を底上げする効果が期待できます。実際、日本企業の国際比較を見ると、人的資本への投資不足が日本の労働生産性の低迷要因の一つだと指摘されています。これは裏を返せば、人財投資を強化することで日本企業の生産性にはまだ向上の余地が大きいことを示唆しています。企業価値の根源は最終的に利益創出力にありますが、その源である生産性を高める人財投資は、中長期的に見れば最も確実に企業価値を押し上げる手段と言えます。
さらに、人財投資はイノベーションの創出にも直結します。社員の能力開発や多様な人財の採用は、企業内に新たな知見や発想をもたらします。例えば、研究開発部門の人員を増強したり専門スキルを持つ人財を登用したりすれば、新製品や新サービスの開発スピードが上がったり、これまで気付かなかった技術的ブレークスルーが生まれたりするでしょう。現場の第一線にいる従業員に対する現場改善の権限委譲や提案制度への投資も、イノベーションを促す土壌を作ります。継続的な企業価値向上にはイノベーションが不可欠であり、人への投資はそのイノベーションを生み出す源泉となるのです。実際、社内公募制度や新規事業提案制度にリソースを割いている企業ほど、次々に新しい事業の芽を出し成長している例が多く見られます。
従業員エンゲージメント向上による業績への好影響
人財投資の効果は、従業員エンゲージメント(仕事や会社への熱意・愛着)の向上という形でも現れます。企業が従業員を大切にし、教育や福利厚生に投資するほど、従業員は「会社から大事にされている」「成長の機会を与えられている」と感じ、仕事への意欲や会社への貢献意識が高まります。その結果、従業員はより主体的に創意工夫を凝らして働くようになり、生産性が上がるだけでなく顧客対応品質の向上やチームワーク強化といった波及効果も生まれます。また、エンゲージメントが高い職場では有能な人財の離職率が低下するため、長年培った技能・知見が社内に蓄積し、安定した組織運営が可能になります。人財の定着は、新たな採用・育成コストの削減にもつながるため、費用対効果の観点からも望ましい結果です。
このようなエンゲージメント向上を通じた業績改善効果は、実証的な研究でも裏付けられています。例えば、リンクアンドモチベーション社が発表した研究結果によれば、従業員エンゲージメントの向上は企業の営業利益率や労働生産性を有意に高めることが明らかになっています。エンゲージメントが1ポイント上がると営業利益率が〇ポイント上昇した、といったデータも報告されており、従業員の意欲向上が経営数値に直結する様子が見て取れます。このように、人への投資は社員のやる気と会社への愛着心を育み、それが業績向上というリターンを生むのです。特にサービス業のように「人」が価値提供の中心となるビジネスでは、従業員満足(投資)→顧客満足→業績向上という好循環が成立することが知られています。経営者にとって、自社の人財に投資することは、業績アップの強力なドライバーを育てることに他なりません。
無形資産価値の向上と市場からの評価
人財への投資は企業内部の業績だけでなく、企業の評価や株価といった外部からの企業価値評価にも影響を与えます。現代の企業価値の大半は設備や工場など有形資産ではなく、人財や知的財産、ブランドといった無形資産に由来しています。優れた人財集団や高度な技能・ノウハウは、他社には容易に真似できない競争優位の源泉であり、市場はそうした「見えない資産」を高く評価します。たとえば、革新的な技術力を持つエンジニアチームや卓越したサービス提供スキルを持つ従業員が社内に多数いる企業は、将来にわたって安定した価値創出が期待できるため、市場から高い成長期待を込めて評価される傾向があります。
昨今は特に、ESG投資(Environment環境・Social社会・Governanceガバナンスを重視する投資)の広がりにより、企業の「S(社会)」、つまり人財や働き方に関する取り組みが投資判断に大きく影響するようになっています。人的資本への投資に積極的な企業は、「社員を大切にし社会的責任を果たしている企業」と見なされ、ESGの観点から好意的に受け止められます。実際、欧米では人的資本情報の開示が既に義務化されるなど、投資家が企業の人財状況を重視する流れが定着しています。日本においても2023年から有価証券報告書での人的資本情報の開示が義務化され、投資家が各社の人財戦略に注目し始めています(この点については次章で詳述します)。人的資本への投資とその開示に積極的な企業は、長期志向の機関投資家から「持続的成長力が高い企業」と評価され、結果として株式市場で高い評価(株価)を享受するケースが増えています。さらに、従業員の健康管理や安全確保などへの投資も含め「従業員を大切にする企業姿勢」を示すことは、ステークホルダー全体の信頼獲得につながり、企業のレピュテーション(評判)向上効果ももたらします。このように、人財投資は企業の無形資産価値を高め、それが市場からの企業価値評価を押し上げるという好循環を生むのです。
人財投資の効果最大化に向けて – ワイズ・インベスティングの重要性
人財投資が企業価値向上につながるメカニズムを述べてきましたが、注意すべきは「どのような投資でもすればよい」というわけではない点です。経営資源には限りがありますから、人的資本への投資も効果の高い分野に重点投入する「選択と集中」が求められます。日本では人的資本投資の効果測定や可視化がまだ十分ではなく、「どのような人財投資が効果的なのか」のエビデンスが不足しているのが現状です。だからこそ、経営者には投資対効果を意識した「ワイズ・インベスティング(賢い投資)」の視点が必要になります。
ワイズ・インベスティングを実現するためのステップの一つは、人財投資のKPI設定とモニタリングです。例えば、研修予算に対してその研修受講者の生産性がどれだけ向上したか、エンゲージメント施策に対して離職率がどう変化したか、といった指標をあらかじめ定めておき定期的に追跡します。これにより、どの施策が有効でどこに無駄があるかを把握でき、次年度以降の予算配分の見直しに活かせます。また、自社の経営戦略上特に重要な人財アジェンダを見極めて重点投資することも賢い投資のポイントです。例えば、製造業であればDX人財育成に、サービス業であればホスピタリティ研修に、といった具合に、自社のビジネスモデルを飛躍させる鍵となる人財領域にリソースを集中投下します。闇雲に全方位へ投資するのではなく、戦略との整合性を意識した投資こそが高いリターンをもたらすからです。
日本企業全体として見ると、人財投資の水準や効果測定手法はまだ発展途上ですが、だからこそ先行して人的資本の「見える化」と戦略的投資に取り組んだ企業が競争優位を握るチャンスでもあります。人財投資と企業価値の関係性をデータで示し、社内外に説明できる企業は、投資家からの信頼も厚くなるでしょう。重要なのは、「人に投資すれば将来リターンがある」という因果を腹落ちさせ、経営陣が長期的視点で腰を据えて人財に資本配分することです。それが結果的に企業価値向上という株主利益にも資するという長期投資の視点を持つことが、経営者には求められています。
おわりに
人財投資と企業価値向上のメカニズムについて、多角的な視点から考察しました。従業員への投資は、短期的には損益計算書上のコストとして表れますが、中長期的には生産性向上、イノベーション創出、従業員の定着・意欲向上、そして市場からの高い評価という大きなリターンを企業にもたらす戦略的投資です。企業が永続的に成長し価値を創造し続けるためには、ヒト・モノ・カネの中でも「ヒト」への投資をなおざりにしてはいけないことがお分かりいただけたでしょう。
大切なのは、その投資を効果的に行うことです。限られたリソースをどこに投下すれば最も企業価値が高まるのか、経営者は科学的なデータや知見も活用しながら賢明な判断を下す必要があります。人的資本経営の成功例が示すように、人財への適切な投資は必ずや企業にもたらされる価値として跳ね返ってくるものです。企業の成長ストーリーの中で、人財こそが主役であり、その主役に惜しみなく投資することが、結果的に株主や顧客への最大の価値還元につながると言えるでしょう。