人的資本開示とステークホルダーへの影響

人的資本経営を進める上で、近年その延長線上として注目されているのが「人的資本開示」です。これは、企業が自社の人財に関する情報——たとえば人財戦略、従業員の多様性や能力開発の状況、従業員エンゲージメントの水準など——を社外に向けて開示し、ステークホルダーと共有することを指します。人的資本開示は単なる情報公開ではなく、企業の姿勢や価値観を示し、ステークホルダーとの信頼関係を築くための重要なコミュニケーション手段となっています。本コラムでは、人的資本開示の意義と、それが各ステークホルダーに与える影響について解説します。

人的資本開示の潮流と背景

まず人的資本開示の動向を確認しましょう。世界的に見て、投資家の間ではESG(環境・社会・ガバナンス)の観点から人的資本に関する情報を重視する流れが年々強まってきました。欧米では既に上場企業に対して従業員に関する指標や方針の開示を義務付ける規制が導入されており、米国でもSEC(証券取引委員会)が人的資本情報の開示を求めるルールを制定しています。日本においてもこの流れを受け、企業の人的資本開示が加速しています。

象徴的なのは、2021年のコーポレートガバナンス・コード改訂です。この中で「人的資本や多様性の戦略的な確保・開発」が取締役会の責務として明文化され、年次報告等での開示が期待される事項として盛り込まれました。さらに**2022年には経済産業省が「人的資本可視化指針(ガイドライン)」**を公表し、企業がどのような人財情報をどのように開示すべきかの指針を示しています(例えば人財ポートフォリオやスキル開発投資額、エンゲージメント指標等を開示項目として推奨)。そして極めつけは、2023年3月期の有価証券報告書から上場企業に人的資本情報の開示が事実上義務化されたことです。具体的には、金融庁の開示府令改正により約4,000社の上場企業が「人財育成方針」や「人的資本に関する取り組み」を有価証券報告書で記載することが求められるようになりました。このように、人的資本開示は企業にとって避けて通れない課題となりつつあります。

背景には、「人的資本経営を社会に根付かせるには、企業による情報発信と対話が不可欠だ」という認識があります。経営陣がいくら人的資本に注力しても、その内容を社外に伝えなければ投資家や求職者から評価されず、取り組みが社内に留まってしまいます。また、人的資本開示を促すことで各企業に人財戦略のさらなる磨き上げを促進する狙いもあります。現状では、日本企業の人的資本開示の取り組みは「道半ば」であり、形式的な開示に留まらず踏み込んだ内容が求められていると指摘されています。こうした状況を改善し、単なる義務ではなく価値創造の機会として人的資本開示を捉える企業が増えていくことが期待されています。

人的資本開示がもたらす効果と影響

人的資本開示を行うことは、多様なステークホルダーに対してポジティブな影響を及ぼします。主要なステークホルダー別に、その効果を見てみましょう。

  • 投資家: 企業の人財戦略や人財の状況が開示されることで、長期的な成長可能性や持続力を評価しやすくなります。人的資本情報はESG投資における重要な判断材料であり、情報開示を充実させることは企業の社会的評価(特にESGの「S」評価)を高める助けとなります。例えば、「社員の継続教育に毎年◯億円投資」「女性管理職比率◯%・外国籍社員比率◯%」といった具体的データや方針を示すことで、投資家は企業の将来像を描きやすくなります。人的資本開示を積極的に行う企業は、機関投資家から長期的な視点で信頼を得やすく、結果として資本市場での競争力向上につながると期待されています。実際、人的資本への取り組みが評価されて株価が上昇した例や、逆に開示不足からESG評価が低迷した例も散見され、投資家の関心度の高さがうかがえます。
  • 従業員・求職者: 人的資本開示は、企業が従業員を大切にし、その成長や幸福に本気で向き合っている姿勢の表明となります。例えば、「平均年間研修時間◯時間」「社員エンゲージメント調査スコア◯点、前年より向上」「育児休業取得率◯%」等の情報を公開すれば、社内の従業員は自社の取り組みを誇りに感じモチベーションが上がるでしょう。求職者にとっても、そうした情報は企業選びの重要な指標となります。「この会社は社員の健康や成長を重視しているから働きがいがありそうだ」と感じ、優秀な人財が応募してくれるかもしれません。健康や安全に関する取り組みの開示などは、従業員を大切にする企業姿勢を示し、ステークホルダーからの信頼獲得につながるとされています。開示情報をきっかけに社員のエンゲージメントが高まり離職率が下がったり、「働きやすい会社」として求職者から人気を集め採用力が強化されたりするなど、人的資本開示は企業の人財面にも好影響をもたらします。
  • 顧客・取引先: 顧客や取引先に対しても、人的資本開示は企業の価値観や誠実さを伝える材料となります。例えば、「当社は社員の専門性向上のため年間売上の◯%を研修に投資しています」「在宅勤務制度や柔軟な働き方を導入し、多様な人財が能力を発揮できる環境を整えています」といった情報は、企業が時代に即した健全な経営を行っている証とも言えます。取引先から見れば「この会社は組織基盤がしっかりしており信頼できる」との安心感につながり、長期的な協力関係構築にプラスとなるでしょう。また顧客にとっても、単に商品・サービスの品質だけでなく「その企業がどういう姿勢で事業を営んでいるか」が重視される時代です。人的資本開示を通じて「人を大切にし持続可能な経営をしている企業」というイメージを発信することは、ブランド価値向上や顧客ロイヤルティの向上にも寄与します。最近では消費者も企業のサステナビリティ情報を参考に購買判断を行うケースが増えており、人的資本への取り組みを開示することは顧客から選ばれる要因の一つともなり得ます。

このように、人的資本開示は投資家・従業員・求職者・顧客・取引先といった幅広い関係者にメリットをもたらします。それゆえ、人的資本経営を掲げる企業にとって、適切な情報を適切な形で開示する戦略は非常に重要です。

人的資本開示のポイントと留意点

人的資本開示を効果的に行うためには、いくつかのポイントに留意する必要があります。まず第一に、単なる数値の羅列ではなくストーリーを持った開示を心がけることです。例えば「研修費用◯万円」「離職率◯%」と数字だけ示すのではなく、「当社は◯◯戦略を支えるために△△のスキル育成に注力しており、その一環で年間◯万円の研修投資を行っている」といった形で、経営戦略との関連性や背景も説明します。これにより、読む側(投資家や求職者)は数字の意味を理解しやすくなり、企業の取り組みに共感を覚えやすくなります。

第二に、経年変化や目標値を示すことも有効です。ただ現状値を開示するより、「3年前は離職率◯%だったが人事制度改革で現在◯%まで改善、将来的には◯%以下を目指す」といったように推移や目標を示すと、企業のコミットメントが伝わります。経営陣が人的資本に関してどのような課題意識を持ち、どんな行動計画で改善に取り組んでいるかを具体的に示すことで、ステークホルダーは企業に対しより強い信頼と期待を寄せるでしょう。

第三に、定量情報だけでなく定性情報もバランスよく含めることです。例えば従業員のエンゲージメントスコアや有給休暇消化率といった定量データに加え、「社員の声:働き方改革で業務と育児の両立がしやすくなった」「現場マネージャー育成の取り組みにより部下からの信頼が厚くなった」といった具体的エピソードを紹介するのも効果的です。定性情報は企業の雰囲気や文化を伝えるのに適しており、読み手の理解を深めます。

もっとも注意すべきは、「見せるための開示」に陥らないことです。ただ単に評価を良くするために都合の良い数字だけを載せたり、美辞麗句を並べたりしても、利害関係者は敏感に見抜きます。重要なのは誠実さと一貫性です。開示した内容について社内外から質問や指摘を受けた際、経営トップが自らの言葉で語れるだけの真摯な取り組みでなければなりません。人的資本開示は企業の誠実度を測る試金石とも言えます。裏付けのない飾り立ては逆効果になりかねない点に留意が必要です。

おわりに

人的資本開示とステークホルダーへの影響について述べました。人的資本開示は、単なる情報公開の義務ではなく、企業とステークホルダーを結ぶコミュニケーションの架け橋です。自社の人財に関する取り組みを積極的かつ分かりやすく発信することで、企業はステークホルダーからの理解と共感を得られます。それは結果的に、優良な投資家の呼び込み、優秀な人財の確保、顧客や取引先からの信頼向上といった形で企業価値の向上につながっていくでしょう。

日本企業における人的資本開示の取り組みは始まったばかりですが、これから数年で各社の開示内容に差が出てくると考えられます。経営者にとって、人的資本開示はもはや経営戦略の一部です。どのような情報を開示し、どのように評価されるかを意識しながら人的資本経営を推進することが求められています。人的資本経営に真剣に取り組む企業ほど、その熱意と成果をきちんと世の中に伝えていく責務があると言えるでしょう。人的資本開示を通じてステークホルダーとの信頼を築き上げ、社員と企業がともに輝き報われる社会へと歩みを進める——それこそが、INA&Associates株式会社が目指す「人を想い、未来を創る」経営の姿勢にも通じるものではないでしょうか。今後ますます人的資本開示への関心が高まる中、企業経営者には実践的かつ有益な情報発信を心掛け、人を起点とした持続的成長モデルを社会に示していくことが期待されています。

INA&Associates Inc.

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